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[認知症とメディア] 第1回社内鑑賞会 ◇ ドラマ「大恋愛」~編集部の感想編

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[認知症とメディア] 第1回社内鑑賞会 ◇ ドラマ「大恋愛」~編集部の感想編

正月休み明けの昼休み、弊社の編集部員が会議室に集まり、お昼ご飯を食べながら、ドラマ「大恋愛」の最終回を見ました。

 

→ドラマ「大恋愛」のあらすじを知りたい方はこちらへ

 

視聴後、ネット上でも話題になっていた4つのQuestionについて、質問形式のアンケートを実施しました。編集部員の回答を以下にご紹介します。

 


 

Q1 若年性認知症の尚が、近い将来、自分では子育てができなくなる可能性が高く、夫に育児と自分の介護のダブルの負担がいく可能性があるのに、「自分が生きた証、夫との愛の証がほしい」と考え、子どもをつくったことについて

 

夫が売れっ子小説家という設定で、一般的なサラリーマンの状況とはお金も時間も違うから、子どもをつくるという選択はありなのでは。逆に、ごく普通のサラリーマン家庭では現実的に厳しいと思う。

 

気持ちはわかる。あとは、それを「実行」するかどうかは夫との関係次第ではないか。夫が何を最優先したいのか。「証」を残したいのはむしろ夫かもしれないし、あるいは「証」を残したいという妻の望みを叶えることが、夫の最大の希望かもしれない。そんなことを推し量りつつ、妻にとって重要なのは、自身が不在となった後にどのような苦難があるにせよ、父子がそれを受け止めながらも幸せに生きていけることを信じられるかどうか、である気がする。

 

夫と、育児・介護についてや、将来子どもにどのように説明するかなど、様々なことを話し合い、子どもは夫婦の「所有物」ではないことを確認した上で子どもをつくるならば良いと思う。夫婦の「エゴ」にならなければ良いと思う。

 

夫がOKしたなら問題なし。むしろ子どもを持つことに対して、ものすごい覚悟や責任を意識している人は少数なのでは?

 

子どもがいれば生きがいになるだろうが、自分が当事者だったら、産む決断ができるか自信がない。

 

★ちなみに、ネット上では「家族性アルツハイマーの可能性があるのでは?」という声がありましたが、若年性認知症は、一部に遺伝性をもつものも報告されているものの、9割以上は明確な原因はわかっていないそうです。

 

Q2 現実には未だ認知症治療薬は開発されておらず、つらい思いをしている人が多くいるのに、「新薬開発に成功」という、現時点では遠い夢のようなエピソードを入れたことについて

 

少しでも希望が持てるのはいいと思う。

 

自分の家族が重篤な病に陥っていたときに、同じ病気にかかっている人のドラマを見ていたと想定して考えてみると、ドラマであっても助かる薬ができたというのはいいように思う。

 

ドラマだからまあよいか(外科系のドラマで、神の手やチームにより救命されるのと同様かと)と、スルーした。新薬開発は、世界的レベルでしのぎを削っているのだろう、いつかそうなるとよいな、ぐらいだった。

 

ドラマ(フィクション)なので特に気にならなかったが、自分や家族が治療薬が開発されていない疾患の場合、同じ疾患を取り上げられているドラマは見ない(見れない)と思う。

 

自分や家族等が同じ病気だったら、現実とは乖離している夢を描かれたら悲しい気持ちになると思う。

 

Q3 ある日、(自称)認知症という人が診療所の前に立っていて、5000万円入りの通帳を差し出し、「死ぬまでここにおいてほしい」と頼まれたからといって、警察に届けもせずにそのまま家に置いている診療所の院長の行動について

 

遁走や徘徊、記憶喪失で匿っていたというのならば話は別だが、本人の意図的な行動に基づくものなので、本人の意思を尊重した院長の選択は悪くもないのかなと思う。法律上問題ないのであれば、フィクションなので、むしろドラマのストーリー上この流れが無難かと思った。

 

専門職としての常識や判断の妥当性以前に、尚さんと診療所医師とのあいだで深い人間的な信頼と了解があったとしたら、医師があえて社会的なリスクを承知でそのような契約を結ぶことは(ドラマ展開として)ありえなくもないかもしれない。ただ、そのような設定に説得力をもたせるためには、先に診療所医師の人物像を丁寧に描いておく必要があると思った。

 

普通なら罪に問われことを考えるのでは? 罪に問われないことが明らかであれば、本人に何らかの説得をした上で、本人の意向を尊重することはありだと思う。

 

認知症の人の意思と家族の意思とどちらを優先するのだろうか、と考えると、たとえ認知症でも個人の意思は尊重されるべきだと思う。ただし、そのためには後見人制度などを使用するべきだと思うので、ドラマ内での院長の行動は無責任だと思う。

 

若年性認知症者であり、責任能力が低下しつつあることを医師として理解していながらこうした行動を取ることは、問題だと思う。しかも今回のように、ビデオカメラなど身元が分かる手がかりを沢山持っていたのにもかかわらず、黙っていたというのはありえないように思った。

 

善意による行動であることはよくわかるのだが、通帳を持っているのだから身元確認はできると思うので、家族に連絡した上で、本人の意思を尊重して診療所にいてもらう(結局そうなったが)というのだったらわかるが、テレビの人探し番組を見て連絡というのはちょっと乱暴な描き方だった気がする。

 

Q4 最終回では認知症がかなり進行していて、食事や排泄やその他いろいろな生活上の問題が出てきているはずなのに、そのような姿をいっさい描かず、最後は「1年後に死んだ」の一言で終わり、というような、ある意味きれいごとのみで終わったことについて

 

認知症を扱ったからには、一般的な難病もの美しい&お涙系ストーリーのみ展開させるわけにはいかないので、現実の部分を伝える人物(松尾公平)を主人公以外に設定したわけだが、配役も入れ込んだエピソードが良かったと、逆に感心してみていた。一般の人は、どこまで意識していたのかわからないが、認知症を知ってもらうのにはよかったと思う。ドラマを観た人が、今後の人生で認知症に現実に向き合うことになったとき、ドラマのこと覚えていたなら、自分のこととして考える手立ての1つになるかも。

 

主人公の姿がきれいに描かれすぎているのは、認知症の問題を正面から捉えてほしいのであればミスリードの可能性がありよくないことだと思う。ただ、ドラマを感動的に終わらせたかったという制作意図もわかるし、かわりに若年性認知症が進んだ状態を(松尾公平役の)小池徹平を通して最終回に出してきたのも、制作側のせめてもの良心なのではないかと感じた。

 

制作側としては、タイトルが示すとおり「大恋愛」ドラマを描くための設定の一つとして「若年性認知症」を用いた感があり、病気や治療過程とそこで起こる葛藤などについて詳しく取り上げるつもりはなかったのだろうが、あまりにあっけない描き方ではあった。フィクションなのである程度のご都合主義は当たり前なのだが、せっかく社会的な問題(若年性認知症)を主人公の背景に織り込んだのに残念!と感じた。

 

10回で終わらせなければならない脚本の都合もあったのかもしれないが、あっけなく感じた。認知症が原因で亡くなったかのような誤解が生まれないといいが。 しかし、あくまで「恋愛(家族愛)」が主軸のドラマで、認知症はエピソードにおける小道具的役割なのかもしれない。

 

認知症という病の最期を家族としてどう支えるのか、ということが描かれていたら、恋愛ドラマを越えたものになっていたのかも…。

 

 

現場で働く医療・介護職の方、認知症の人を家族にもつ方など、見る人によって、感じることはそれぞれ違うと思います。

 

みなさまはどう感じたでしょうか? ぜひご感想をお寄せください。

2019年02月13日