都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト
澁澤龍彦 著
小学館P+D BOOKS / 2016年
脳に急性の障害が加わると意識障害を生じます。たとえば、交通事故で頭を強打すれば意識を失いますね。
一方、ゆるやかな、慢性の障害が脳に蓄積すれば認知症に至るのが典型です。せん妄は急性の脳障害ですから、早くその原因を見つけないと、生命にかかわることもあります。原因が薬物だったりすると、その薬をやめない限りなおりません。
認知症にせん妄が合併することが多いのですが、症状や行動に似ているところもありますから、見逃されていると大変です。
せん妄は意識の障害であると言いましたが、意識障害を2つの軸で考えてみましょう。「浅い―深い」という軸と、「単純―複雑」という軸です。
せん妄は浅いけれども、複雑な意識障害です。寝とぼけを思い描いていただければ近いでしょう。ただ、浅いと言っても意識障害があるのですから、記憶は障害され、時間・場所・人などの間違いも起きます。注意を集中させたり、持続したりする能力も落ちます。これだけをとれば認知症と間違えられるのも無理ありません。
でも、これらに加えて活発な精神症状、行動障害がみられるのが、せん妄の特徴です。なかでも幻視を見ることが多いのですが、「赤ちゃんが泣いている」などという幻聴を訴えられる方もあります。
多動になることが多く、ぎょろぎょろした目つきで徘徊したり、無目的にタンスを開け閉めします。逆に、まったく身じろぎもせず、天井を見つめていることもあります。これらが1日のうちでも急激に入れ替わります。この予測しにくい変動が、せん妄の1つの特徴です。不安も高いのですが、夕方や夜間に増悪するのが普通です。夕方症候群と言ったり、夜間せん妄と言ったりしますね。
原因は、薬物、脳血管障害、脱水、高熱、環境の急変などですが、詳細は拙著『認知症とは何か』をお読みください。
さて、このようなとき、本人はどのような体験をしているのでしょう。澁澤龍彦のエッセイから紹介します。
彼はかなり変わった小説やエッセイを書く人ですが、これは実際に体験したことだと、繰り返し断っておられます。がんの手術をした後の体験のようです。
最初の徴候は「天井一面に地図がびっしり描き込んであるように見える。東京の地図らしい。何々区というような文字が記入してあるのまで見える」という体験でした。
「蛍光灯のほかにも換気孔だの火災報知器だのスプリンクラーだの、そのほか得体の知れない装置がいろいろ取りつけてあるが、それらが少しずつ動き出した。……あるものはおそろしい顔になり、ひたと私の方をにらみながら、その首をぐっと伸ばしだした。……時々その首ががくり、がくりとゆれる。気味が悪いったらない」
「これらの幻覚は、細部にいたるまで、じつにリアルで……あいまいな部分やぼんやりした部分は1カ所もない」
これは彼に限らず、せん妄で見られる幻視の特徴です。あまりに鮮明なので、現実とは異なって見えたと言う人もいます。
「天井から透明な紙を切り抜いた、クラゲのようなかたちのものがいくつとなく降りてきて、きらきら光りながらあたり一面に浮遊する。……巨大なクモあるいはカニのような生きものが、その節くれだった黒い脚で天井をのろのろ這い回っているような、まことに気味の悪い光景も見られた」
クモや蟻のような小動物が無数に壁を這っているという幻視は、せん妄の人にはかなり共通して見られます。澁澤さんの場合は、その他にも男女が絡み合っているような幻覚、奇形的にふくらんだ肉体の人物、ぶよぶよしたラクダのような、何とも気味悪い動物の一群れ、それが女性の顔に変わって人をバカにしたようににやりと笑う……これらが急に場面が変わって次々に現れ、部屋が90度回転して、自分のベッドが垂直な壁に宙づりになっていたりします。
このようなことが起きているのですから当然でしょうが、せん妄が生じると、皆さん、とても不安げです。
添い寝したりして「だいじょうぶだよ、私がついているから」と眠りに入ってていただくか、せん妄は中途半端な意識状態で起きますから、いったん明るいところでお茶などを飲んでいただいて、しっかり目覚めていただくと幻視などは消えるのが普通です。ちなみに、せん妄に眠剤は禁忌です。