仕事と両立しながら妻を介護して20年

認知症の人とその家族はさまざまな苦悩を抱えながら、日々生活しているといわれています。そんな本人・家族らの体験を理解することはとても重要です。富田秀信さんは20年前に心臓発作で倒れて若年性認知症となった妻・千代野さんを介護しています(※)。介護保険制度創設前後の支援の実際を伝えるとともに、看護・介護に携わる方々へメッセージをいただきます。

 ※千代野さんは2016年12月19日逝去されました。本内容は2016年にご寄稿いただいた当時のまま掲載しています。

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妻の経過

●「お宅の奥さんは若過ぎます」

妻・千代野(当時49歳)は20年前の1996年4月19日に倒れました。急激なカリウムの低下による心臓発作を起こし、一時、酸素(血液)が脳に運ばれない無酸素脳症の状態になり、記憶・言語・思考などの高次機能がやられました。

1年4カ月の入院生活(4つの病院を転院)を送り、「このまま入院していても意味がない」と通院リハビリに変更し、退院。だが、問題は在宅介護をどうするか? 京都市内の福祉事務所に相談しましたが、「お宅の奥さんは若過ぎます」の一言。おおむね65歳以上を対象にした京都市の高齢者ケア施設では対象外ということでした。家族は当時45歳の働き盛りの私と、専門学校に通う長男、高校2年生の二男、中学1年生の長女。私や子どもたちの勤務・通学を制限するしか道がないのか? 大家族でもなく、経済力もない庶民に“家族の甲斐性”での介護が迫られました。

●SOSを出して過ごせた2年7カ月

策は何か? 結局、“人の力”に頼ることでした。男だからといって職場や地域で家族のこと、妻の病気のことを隠さず、友人・知人、そして初対面の方にも厚かましくSOSを出しました。すると、人間捨てたものではありません。「何曜日の何時間なら奥さんをみられます」との声がパッチワークのように集まりました。介護保険制度が導入される2000年4月までは、無認可施設、精神障害者施設などに「特例」として通所もしました。今思えば、介護保険制度のなかった、退院直後の2年7カ月が一番苦しかった時期です。この時期は当時交流があった若年性認知症者の家族、皆が試されていたとも言えます。なんとか家族で在宅療養生活を続けられた人々と、そうでない人々が出ました。使える制度がなく家族の甲斐性での介護は酷でした。

●制度の適用

2000年4月からの介護保険制度の導入で、当時53歳の妻は第2号被保険者として、サービスを受けられるようになりました。それまでのように「特例」扱いではありません。デイサービスでは、65歳以上の高齢者の大半が椅子や車いすに座って1日じっとテレビなどを見ていますが、53歳の妻に見合う“介護メニュー”を考えてほしいと、施設側に堂々と要望できるようになったのです。当然、受け入れてもらうのは難しいのですが。

ヘルパーのあれこれ

妻のことを知ろうとするヘルパーのケアを受けると、2、3と回を重ねるごとに妻の顔に変化が表れます。つまり、妻が京都でどんなふうに育ったのか、保育士として勤務していた保育園のこと、そこでの遊びなど、中途障がい者になる前の健常時のことをうまく話題にして会話してくれると、妻に笑顔が増えます。そして、思い出の童謡などを一緒に歌うと、なお幸せそうです。童謡を知らない若いヘルパーには、妻が歌詞とメロディーを教えます。こうなれば障がい者・健常者の垣根を越えた人間同士の信頼感が芽生えます。

一方、妻のことを仕事の対象としか思っていないヘルパーもいます。食事のときに妻が犬食いをしていてもそのままだったり、妻ひとりで食事させて自分はテレビを見ていたりするのです。人間同士の会話はありません。悲しいことです。もちろん、「会話せよ」とは規則にないでしょう……。

これらの事例は子どもからの報告。しかし何よりヘルパーが帰った後の妻の顔を見れば、楽しい一時だったか、そうでなかったかは一目瞭然です。

制度の有無と介護充実度は別

わが家は入院を含めて妻が利用できる制度がない4年間と、介護保険制度導入後の16年間を過ごしてきました。利用できる制度のない時代は制度化を強く望みました。しかし、制度ができてからは、その範囲でしかサービスが利用できない不自由さも数多く経験してきました。なぜデイサービスの送迎の際、5~10分が待てないのか? なぜ送迎車は2、3分の遠回りをしてくれないのか? など、“融通が利かない”のです。

規則を厳守する職員は、施設側からみれば“真面目な職員”でしょう。しかし、介護家族の評価は別です。介護保険制度導入前の“人の力”は「富田さん、千代野さんの力に」と、無数の思いが集まったものでした。専門家から見ると介護のレベルは低かったでしょう。私も「何かあったら責任は私がとります」と言い続けてきました。率直に言えば、今の真面目な職員は、責任を重視するあまり萎縮していないでしょうか?

制度というものは、完全ではありません。未整備、不十分さを日常の中から見つけて改善していくものでしょう。それには介護・看護の専門家と、介護家族の間での対等で自由な意見交換が必要です。

さらに、“男性介護”という言葉も、この20年で少しは広まってきました。しかし、制度が生きてくるにはまだ時間がかかります。昭和30年代、女性の社会進出にはその保障として「ポストの数ほど保育所を」といわれました。そして今、男性が子育てや介護から逃げられる時代ではありません。この負担は職場・地域で問題共有していくしか解決策はないと思います。

これから、男性が職場で自らの家族介護を語れるかどうかにかかっています。勇気を持って語ると職場環境が変わり始めるのは、私の経験でわかっています。介護をしながら働き続けるために、男性が自らの介護問題をまわりに語り始めれば、社会は劇的に変わるでしょう。

人間相互の学び合い

妻は回復から“新しい発達”をしています。

倒れた後は読み書きができなくなりましたが、今では意味はわからずとも新聞などの文章はしっかり読めます。習字も雅号を持っていたほどの腕前なので、今もそれなりの字が書けます。童謡が流れれば歌詞を覚えていて歌い出します。

倒れてから20年、妻は今日が何日なのか、今が何時なのか、これから食べるのは何ご飯なのかはわかりません。目の前にいる私を実父だと思っています。しかし、私にはそれらは微々たることです。妻の“新しい発達”“不思議な発見”を20年間見てきました。妻のしぐさから多くを学んできました。看護・介護に携わる人には、そんな不思議な人に寄り添う仕事だと思ってかかわってほしいです。

──月刊「コミュニティケア」第18巻 第09号 p.62-53より転載

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