おばあちゃん ひとり せんそうごっこ
谷川俊太郎 文、三輪滋 絵
プラネット ジアース / 2006年
今回は絵本を紹介します。小学校低学年と思われる、孫の目から見た「ぼけ」のおばあちゃんが淡々と描かれています。この絵本は、絶版後、2006年に谷川俊太郎さんの作品3作を1冊にした形で再び発行されました。
おばあちゃんの「ぼけ」は、かなり深いようで、「うちのおばあちゃんは あかちゃんみたい。いつもねどこに ねています」「おむつを しています」
「ごはんも ひとりでは たべられない」のです。 「でも あかちゃんとは ちがって おなかがすいても なきません。〈ごはんは まだかい〉と おおきなこえで いいます」「〈いま たべたばかりじゃない〉と おかあさんは おこります」
お母さんが怒ると、お父さんがお母さんを怒るのです。おばあちゃんはお父さんの母親ですが、おそらく、自分では介護にあたらず、お母さんに任せ、お母さんが優しくないと腹を立てるのは、気持ちはわからないでもないのですが、やはり間違ってますよね。
「ときどき おとうさんにむかってあなたはどなたでしたっけ なんてきいたりします」
いつも傍にいて介護にあたってくれている人は、名前や関係を忘れても「いつも世話になっている人」などと言い、忘れないのですが、自分の息子であっても、心が離れてしまった人は、記憶から消し去られるのです。
「ときどき おばあちゃんは おかあさんのことを 〈どろぼう!〉といいます」
これだけ「ぼけ」が深まると、妄想はなくなるのが普通ですが、おばあちゃんは、昔は美人だったらしく、このような人は、嫁に介護を受けているという現状をなかなか受け入れることができず、それが相手を非難する妄想を生むのでしょう。「もっと優しくしてよ」という思いも隠されています。
「おかあさんは ひとりで ないていることがある」のです。介護に疲れ果て、つれ合いにさえ、その辛さをわかってもらえないお嫁さんは、泣くしかないのでしょう。それを見て、「ぼくが 〈おばあちゃんなんか しんじゃえばいい〉と いうと おかあさんは じいっと したをむいて だまっています」。
お母さんもふとそう思うことがあるのかもしれませんね。それを責めることなんて、誰にもできません。しかし、「そうだね」と言うこともできず、じっと下を向くしかないのでしょう。
お医者さんは「おばあちゃんのびょうきには どんなくすりもきかない」と言うのですが、それ以上のことは何も言ってくれないようです。医学はこれまで生活に出会ってこなかったのです。
そのようなおばあちゃんをみていて、孫は「うちゅうじんに なったんじゃないか」と思うのです。「うちゅうじんといっしょに くらすのは むずかしい」とも感じます。宇宙人は人間そっくりでも、人間とはどこか違うと感じるからです。
そうですね。ときどき「ぼけ」の人は「異界の人」ではないかと思うことがあります。
「でも うちゅうじんも いきものです。せんせいは いきものを ころすのは よくないと いった」のです。
ここまでだと、暗い話で終わるところですが、最後のページには「おとうさんや おかあさんも としをとると うちゅうじんになります。ぼくも いまにうちゅうじんになります」と書かれています。
「ぼけ」もまた老いの1つの姿と感じているのでしょう。老いと向き合った体験のない人が増えているなかで、このお孫さんの心に刻み込まれた記憶は、将来、必ずや彼に豊かさと深さをもたらすことでしょう。