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【関連本紹介】“認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち 〈関連記事・その2/後編〉

Column

【関連本紹介】“認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち 〈関連記事・その2/後編〉

Nursing Todayブックレット・13

 

“認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち

Restraints in Nursing

 

平岩千代子 著・大熊由紀子 寄稿

A5判、64頁、定価(本体900円+税)

 

医療や介護の現場における身体の拘束・薬剤による抑制・言葉による抑圧は、2006年の高齢者虐待防止法で規制されるようになりました。しかし、認知症をもつ人の数とともに身体拘束はこの10年でむしろ増加傾向にあるといいます


人は病や老いを抱えながらどのように自立し、自由であるべきなのでしょうか。人としての尊厳を守ることを信念に実践を重ねてきた3人の看護師へのインタビューから考えます。

 

*  *  *

【内容】

はじめに──最期まで身も心も縛られない暮らしを求めて

田中とも江「縛らない看護は私のライフワーク」

小藤幹江「抑制することは看護の本質にそぐわない」

永田久美子「見えない拘束からの解放をめざして」

前例を超え、前例を創ったナースたち(大熊由紀子)

 

平岩 千代子(ひらいわ・ちよこ):シニアの暮らしと住まいコーディネーター、社会福祉士。早稲田大学教育学部理学科卒業。外資系製薬企業の研究所、株式会社電通総研を経て独立。お茶の水女子大学大学院客員研究員、NPO法人シニアライフ情報センター理事などを歴任。国際医療福祉大学大学院医療福祉ジャーナリズム修士課程修了。

 

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── 関連記事・その2 ──

 

関連記事・その1:丹野智文さんインタビュー「できることを奪わないで」

 

ブックレットへの反響から〈後編〉

 

インタビュアー  平岩 千代子

社会福祉士/最期まで身も心も縛られない暮らしと住まいの研究・取材

 


 宮城県仙台市を中心に80以上の事業所を運営する清山会医療福祉グループでは、役職者の勉強会の講読本として拙著をとりあげてくださり、99人もの方からA4版56ページにも及ぶ感想文をお寄せいただいたのは、うれしい驚きでした。

 同グループでは「自立と共生の権理を尊ぶナラティブな関わり」を理念に掲げ、「自分の人生の主人公として主体的に生き(自立)、価値を認められて人とつながりながら生きること(共生)は、人の命に授けられたあたりまえの権理です」と説明しています。

 感想文の中で、多くの職員が、「人権」「尊厳」「権理」「法人の理念」という日常生活ではあまり用いることがない言葉を使い、3人のナースの取り組みやご自身が考えたことや感じたことを表現されていたことに、心を揺さぶられました。

 今回は、同グループのみなさまから頂いた感想のごく一部を紹介します。

(平岩)

 

登場する人物について〉
 お名前は、ご本人の了承を得てご本名を記載しています(敬称略)。なお、ご所属お役職は感想をお送りくださった当時のものです。

 


 

 

「身体拘束をした時のマグネットがはまる手の感触がよみがえりました」

 

 かつて身体拘束をした経験をもつ現場スタッフから、悲痛な声が寄せられました。

 

 この本を手にしてから開くまでに、時間と勇気がいりました。自分自身が、かつて身体拘束をした病院での経験を思い出したくなかったからです。読み始めてからも、身体拘束をしたときの、マグネットがはまる手の感触がよみがえるなど、何度も本を閉じたくなりました。

 あの時、私はどうすべきだったのか、自分自身の行動のふがいなさを感じます。

 長く働くべき病院ではなかったとはいえ、一時期でも関わりをもった患者さんたちを「置いてきてしまった、見て見ぬふりをしてしまった」という自分自身の行動に対するある種の償いのために、今、私は「清山会」で働いているのではないかとさえ思うこともあります。

 私にとって拘束について考えることはとても辛いことですが、あの時の過ちとご本人たちの辛さを思うとき、目を背けずにしっかり向き合っていかなければならないと思います。

 自分の事業所は拘束をしないというのはもちろんのこと、この業界で働く一人として、自分事として考え続けるべき課題なのだと思います。

(大嶋貴子 清山会さくらの杜通所リハビリテーション)

 

 「ある種の償い」という言葉を目にしたとき、いたたまれない気持ちになりました。当時の残滓が今もなお心の奥底にずっしりと沈殿しているように思われます。

 

 

 「あの頃のご利用者への対応の反省を胸に秘め、今仕事をしているのかもしれない」

 

 看護助手として福祉の仕事をはじめた病院のころを思い出しました。車椅子の人にベルトをする、夕食が終わり就寝前には鍵付きのつなぎ服をきていただくなど、身体拘束が当たり前でした。

 疑問を持たずに仕事をしていたのは、介護の資格もなく、身体拘束についての知識もない状態で働いていたからだと思います。

 拘束されていたご利用者はどんな気持ちだったのか。深夜に、つなぎ服を着たご利用者のパット交換をしますが、トイレで自然にする「当たり前」を奪っていたと思います。

 あの頃のご利用者は私たちをどのように見ていたのでしょうか。

 あの頃のご利用者への対応の反省を胸に秘め、今仕事をしているのかもしれないと、本を読んで感じています。

(三邉純 清山会さくらデイサービスセンター)

 

 身体拘束は、縛られる側の患者だけでなく、縛る側の現場スタッフにとっても、いつまでも忘れることができない辛い経験となっていることがわかります。
 主人公ナースのひとり田中とも江さんが語ってくださった次の言葉を思い出しました。
「余裕のない現場と劣悪な労働環境におかれたスタッフは『加害者』であり『被害者』でもあります」

 

 

「医療では人権が軽んじられているようにしか思えない

 

 勤務先の利用者が入院するとき、病院に同行したりお見舞いに行ったりするスタッフも多く、第三者の立場としてみた身体拘束についての語りです。

 

 身体拘束について、入院手続き時に渡される一連の書類の中に、「身体拘束同意書」がセットされていることが少なくありません。これは、身体拘束を医療行為の一環とみなしている証拠です。

 そして、同意書に署名をするのは、本人ではなく配偶者や子どもなど親族の場合がほとんどです。入院という医療環境に身をおいたとたん、本人の意思が配慮されない。これは、本当にやむを得ないことなのでしょうか。

 ケアマネとして、入退院の調整や立ち合いで病院に行く機会があります。そのとき目にするのは、ほとんどの高齢者が身体拘束されている姿です。普段は体幹ベルトなどで拘束されている人が、リハビリをするときだけ一時的に拘束をとかれ、リハビリを終えてベッドに戻ったとたん、また拘束されるという意味不明な光景もあります。

 縛るしかないという思い込み。医療では人権が軽んじられているようにしか思えません。縛らない方法を考えるという発想の転換はできないものでしょうか。

(沼田英敏 さくら介護支援事業所)

 

 今年13回忌を迎える亡き父が入院したとき、身体拘束同意書に署名を迫られ「そんなことは絶対にできない」と憤りを感じた私。今にして思うと、父の人権が脅かされるとの危機感をおぼえたように思います。それが時をへて、拙著を執筆するきっかけになりました。

 

 

人としての当たり前に生きる権理を奪う側の人は、ある意味自分自身も人間を捨てているのかもしれない」

 

 身体拘束同意書を渡され、拘束される利用者を何回も見てきました。入居者が入院した時に受ける拘束に対し何もできない無力さ。介護職として仕事をしてきて何度もこの無力感におしつぶされそうになりました。

 人としての当たり前に生きる権理を奪う側の人は、ある意味自分自身も人間を捨てているのかもしれない。そうでなければ正気でいられません。

(佐久間淳 介護老人保健施設希望の杜)

 

 「ある意味自分自身も人間を捨てているのかもしれない」・・・胸にずしんと響きます。身体拘束をせざるをえない現場に身をおいた経験のある方たちのお気持ちに思いをはせると、息苦しくなります。

 

 

“患者さんの尊厳を、なんちゃら~”と謳っている立派な病院。中身は、認知症のある方の尊厳なんか、これっぽっちも考えてない」

 

 病院の入口には、病院の理念が掲げられ「患者さんの尊厳を、なんちゃら~」と高々と謳っている総合病院の実態です。

 A病院には、「身体拘束に関する同意書」があり、その内容は「万が一、治療に支障がある場合は、身体拘束を行います」というものです。

 B病院では、今はやりの入院セット(歯ブラシ、コップ、タオル、スリッパ、オムツなど、入院中に必要なものが入ったセット)の中に、すでに抑制帯とミトンが入っていました。

 いずれも市内にある立派な病院ですが、実際行われている中身は、人の尊厳や認知症のある方の尊厳なんか、これっぽっちも考えていない。患者やその家族はそのことに気づいても、治療を受けるためには、病院の方針に従わざるをえない。そんな上下関係があるのです。

 もう二度と、自分たちのグループホームの利用者さんを、そんな目に合わせたくありません。何とかして、グループホームで暮らし続けながら治療をしてもらいたいとの強い想いがあります。

 私たち介護士も、自分たちの仕事に誇りをもち、人を大切に想うココロを技術に活かしていきたいと、改めて感じました。

(名取直保美 グループホームはごうの杜)

 

総合病院の建前と実態の乖離を鋭くつくコメントに、 溜飲が下がります。

 

 

「デイにいることが、“見えない拘束”になっているのかもしれません」

 

拙著3人目の主人公ナース、永田久美子さんが指摘された「見えない拘束の罠」について、自分たちが提供しているケアについて、新たに気づいたこともあるようです。

 

 連日デイを利用され、お1人で外に出られる方がいます。スタッフが探すと必ず近くの公園のほうを通り自宅へ戻ろうとしているので、一緒に散歩などしています。最近頻度が増え1日に3回戻られたことがあります。ご家族にも伝えましたが「日中は自宅に1人にしておけない」「帰る道は知っているので大丈夫です」と話されます。

 その方にとって「いずみの杜」というデイが“見えない拘束”になっているのかもしれません。まだご本人に「なぜ家に帰りたいのか?」「いずみの杜で過ごす時間について」など伺ってはいません。今後はその方にとって「当たり前」の生活をしていただけるようにしたいです。

(渡邊麻衣子 いずみの杜診療所)

 

 このような自宅に戻りたくなってしまう方について「帰宅願望」があると表現し、その原因が本人の認知機能低下にともなう症状であるかのように解釈してしまいがちです。
 けれど、“見えない拘束”という新たな概念は、デイケアにおける支援のあり方を振り返るきっかけとなっています。

 

 

「本当に怖いのは“見えない拘束”かもしれない」

 

「見える拘束」と「見えない拘束」・・・もしかしたら本当に怖いのは「見えない拘束」かもしれないとさえ感じます。どちらもご本人の尊厳を全く無視したものであり、身も心も縛られた暮らしをもたらし、未来への希望を閉ざしていきます。

 歴史を学び、今という現実に向き合うだけでなく、未来を考え、社会を変えていかなければならないと痛感します。

 同じ人として、「おかしいこと」を「おかしい」と気づき、その気づきから目を背けないことが本当の意味でお年寄りに向き合うことなのかもしれません。

 日常の中で起きている小さな出来事を決して楽観視せず、一つひとつの積み重ねが一人の人の人生を変えていくということを忘れてはならないと思います。

(櫻井亜紀子 事業支援室)

 

 見えない拘束……。介護者やケアに携わる専門職だけでなく、私たち一般人も無意識のうちにこの罠にはまり、加担していることがあるかもしれないとのリスクに気づかされました。

 

 

「コロナ禍で身体拘束の危機を回避した清山会医療福祉グループ」

 
 清山会医療福祉グループは、先に紹介した法人の理念に基づき、1999年に最初の事業所を開設して以来「いついかなる状況においても絶対に身体拘束をしない」ことに徹底して取り組んできました。
 しかしコロナ禍にみまわれる中、従来型老人保健施設の多床室で、身体拘束をせざるをえないかもしれないとの危機に陥ったことがありました。認知症のある入居者が、コロナ感染者の濃厚接触者となったためです。自分の部屋から出ないよう再三注意しても部屋から出てきてしまい、廊下を歩き回るだけでなく、ドアノブなどに唾をつけてしまうのです。
 当時はまだコロナの正体がまったく分からない状態でした。「入居者とスタッフの命を守るためには、身体拘束をすることもやむをえないかもしれない」と代表の山崎英樹医師が幹部会で苦渋の発言をしました。重苦しい空気が漂う中、参加した職員の誰一人として首をたてにふることがなく、結果として身体拘束を回避したといいます。
 2022年6月、NHKハートネットTV「特集 クラスターを食い止めろ」(記事公開日:2021年6月28日)で紹介されたので、視聴された方もいらっしゃるかもしれません。
 
 なぜ新型コロナウイルスによるパンデミックという緊急事態のなかで、身体拘束を回避することができたのか。その秘密を探るため、私は職員へのインタビューに仙台を訪問しました。
 この続きは、次回(関連記事・その3)で取り上げたいと思います。
 
 
 

Nursing Todayブックレット・13

 

“認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち

Restraints in Nursing

 

平岩千代子 著・大熊由紀子 寄稿

A5判、64頁、定価(本体900円+税)

 

病や老いを抱えながら、私たちはどのように自立し、自由であるべきなのか。人としての尊厳を守ることを信念に実践を重ねてきた3人の看護師へのインタビューから考える。

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2023年05月08日