時に静かにベッドに横たわる母を見ると、母を海のようだと思う時があります。海は言葉をもっていません。しかし、その広さとその輝きと青さで、私に多くのことを語ってくれます。母は言葉を失いましたが、凪いだ海のようなヒトミで静かに私を見つめ、言葉では伝わらないことをこの私に教えます。
母とその母の痴呆という病気がなかったら、ここまで深く親のことを考えたでしょうか。人を支えるということを考えたでしょうか。……母のために自分の時間を使い、自分自身を惜しみなく差し出すことで、自分自身が自由になっていくのも感じます。母が病気になったから、こんなにも深く『生きる』ということの意味を考えることができるようになったのだと思うのです。母が自分の身を挺して私を育てようとしているとさえ感じています。
痴呆の母を思う時、子どもの頃、家の近くにあったバス停のイスを思い出します。ほったらかしの雨ざらしの木のイスです。今にもバラバラにほどけてしまいそうなおんぼろのイスでした。バスを待つ人を座らせ、歩き疲れた老人を憩わせ、時にはじゃま者扱いされ、けっとばされ、毎日のように学校帰りの子どもを楽しませるバス停のイスでした。崩れていく自分を必死に支えながらも、人を支え続けるイスでした。私の中では、そのイスが痴呆の母の存在とぴったりと重なるのです。