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小澤勲先生が選ぶ“認知症を知るための本”—15 恍惚の人

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小澤勲先生が選ぶ“認知症を知るための本”—15 恍惚の人

痴呆を生きるということ』『認知症とは何か』等の著書で有名な精神科医・小澤 勲 先生が選んだ“ぼけ”をテーマにした文学作品・詩歌・絵本を、毎月1冊ご紹介します。

 

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恍惚の人

 

有吉佐和子 

 

新潮文庫 / 1982年

 

この本の初出は1972年、約半世紀前です。痴呆という言葉さえ専門家しか使わない時代です。耄碌(もうろく)というのが一般に使われていた言葉でした。

 

私は当時まだ認知症の方々とのかかわりはありませんでした。映画にもなり(豊田四郎監督、森繁久弥・高峰秀子・田村高広主演……懐かしい名前ですね)、たびたびTVドラマにもなりました。ごらんになった方も多いでしょう。

 

この本は大ベストセラーになり社会現象にもなって、認知症にはまったく無策だった、当時の厚生省を認知症対策に駆り立てたほどでした。出版と同時に初読したときの印象があまりよくなかったのですが、再読し、書きたいこともたくさんあります。

 

まずあらすじを紹介しましょう。

同じ敷地の母屋に信利・昭子夫婦と息子の敏、離れに信利の父母である茂造・春代が住んでいます。離れは、茂造の嫁いびりが激しいことを気の毒がった姑の春代が言い出し、建てられたものです。

信利は一流企業のサラリーマン、昭子は法律事務所で弁護士にも頼られる有能なタイピストとして働いています。

 

ある小雪ちらつく夕方、1週間分の買い物をして帰路についた昭子が傘も差さず外套も着ずに歩いてくる茂造に会い、家に連れ帰るところから、小説は始まります。

その夜、茂造が母屋に来て、いきなり昭子が作った野菜の煮物を手づかみで頬張るのです。驚いた昭子に「婆さんが起きてくれないもんだから腹が空いてかなわんのです」と言います。心配して昭子が離れに行ってみると、春代はすでに亡くなっていたのです。

 

葬儀には娘の京子が遠くから駆けつけて来たのですが、茂造は「あなたは、どなたでしたかな」と問い、自分の娘を忘れているのです。息子の信利も忘れているようです。ところが、嫁の昭子は名前もきっちり言えます。孫の敏も忘れてはいません。敏は受験勉強中であまりかかわりはないのですが、覚えているようです。そうですね、心に残る人は記憶にも残るのです。

 

しかし、茂造の認知症は、人物誤認もあるのですから、かなり深く、中等度から重度でしょう。同居しておらず、春代がかなりカバーしていたとはいえ、春代の死まで、信利・昭子夫婦のどちらもが茂造の「ぼけ」にまったく気づいていなかったというのは、ちょっと解せません。しかし、その後、支えを失った茂造の「ぼけ」は急速に深まっていきます。その様子がかなりリアルに書かれています。

 

茂造は妻・春代の逝去をきっかけにさまざまな「症状」「行動」がみられるようになります。

まず、以前は胃腸が弱く、食べる量も少なかった茂造が大食漢になりました。誰かが止めないと際限なく食べ続けます。1日に何度も「昭子さん、腹が減って困ります。何か食べさせてください」と言います。食事した直後でも言うのです。

徘徊も生じます。敏が追いかけたのですが、振り切って先へ先へと早足で進み、昭子に助けの電話が入り、昭子はタクシーで迎えに行きます。

「暴漢が入ってきた。昭子さん、逃げましょう。警察に連絡してください」と怯えて言い、信利を指して「ほら、そこにいる」と言うのです。幻視があったのかもしれません。そうだとすると、せん妄ですが、信利を暴漢と言うのは、それなりの理由があったのかもしれません。

 

信利は「自分の親の老醜の姿を直視できない」と言うのです。気持ちはわからないでもないのですが、でも、困り果てている昭子を見ても手伝おうとはしないのは駄目ですよね。昭子と信利とは気持ちが行き違い、口喧嘩が絶えなくなります。

「ぼけ」が進み、失禁、弄便が生じます。そして風呂でおぼれ、肺炎になり医者も見放すのですが、奇跡的に回復し、それをきっかけに昭子は「生かせるだけ生かしてやろう」と覚悟を決めます。茂造は「ぼけ」が深まって、夢見るような、穏やかな顔つきになり、無垢の笑顔を昭子らに向けるのです。

 

明らかな間違いもあります。

「幻覚・妄想があるのは老人性うつ病の症状で精神病である。だから精神病院に入院させるしかない。弄便などは人格欠損の症状である」と昭子は教えられるのですが、認知症にみられる幻覚・妄想はさまざまな成り立ちをもつ認知症の周辺症状で、老人性うつ病とは関係ありません。人格欠損という言葉は認知症の人への明らかな侮蔑でしょう。

 

ある日、茂造は突然亡くなります。昭子はあちこちに連絡を入れ、湯灌まですませた後でようやく涙があふれるのです。しかし、昭子は自分が泣いていることに気づいたのはそれからずいぶん後だったのです。

 

そうですね、大切な人を喪った哀しみは遅れてやってくるのです。最初は嫌っていた茂造ですが、昭子には「大切な人」になったのでしょう。

 

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はじめに

 1 明日の記憶●荻原 浩  著

 2 われもこう●瀬戸内寂聴 著

 3 寂蓼郊野●吉目木晴彦 著

 4 ただ一撃●藤沢周平 著

 5 都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト●澁澤龍彦 著

 6 わが母の記―その1「花の下」●井上 靖 著

 7 わが母の記―その2「月の光●井上 靖 著

 8 わが母の記―その3「雪の面●井上 靖 著

 9 おばあちゃん ひとり せんそうごっこ●谷川俊太郎 文、三輪滋 絵

10 わたし 大好き●リディア・バーディック 作、みらいなな 訳

11 介護をこえて―高齢者の暮らしを支えるために●浜田きよ子 著

12 黄昏記●真野さよ 著

13 マザー●藤川幸之助 著

14 ライスカレーと母と海●藤川幸之助 著、永田理恵 写真

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2021年02月22日